牧師ブログ

06 手術後の苦しみと悟りー水が飲めない苦しみと御言葉の貴重さ(Yoshiki)

手術室の明るいライトが消え、意識が遠のいたーー
次に目を覚ましたとき、、そこは病室のベットの上でした。

「手術は終わったのか......?」

ぼんやりとした頭の中でそう思うと同時に、 痛み が襲ってきました。
手術を受けた箇所がズキズキと痛み、体は思うようみ動きません。
麻酔の影響が残っているせいか、意識もぼんやりしています。

それでも、時間が経つにつれて次第に落ち着き、少しずつ回復している実感が湧いてきました。

しかし、そのとき新たな苦しみが訪れたのです。

水が飲みたいのに、飲めない

「水を飲みたい......」

しかし、すぐに飲むことはできませんでした。

全身麻酔を受けた後は、内臓の動きが一時的に止まってしまうため、一定時間水を飲むことが禁じられています。飲んでしまうと嘔吐や気管に入ってしまう誤嚥(ごえん)のリスクがあり、体に負担がかかるからです。

「わかっている。でも、喉が渇くんです。」

時計を見ても時間が経つのが遅く感じる。
ナースコールを押して、
 「水を口に含んでいいですか?」と尋ねても、
 「口の中を潤すだけは良いですが、水は吐き出してください」と伝えられる。

痛みと渇き。

ただ水を一口飲めるだけで、どれほど楽になるかーー。
けれど、それが許されない時間が続くと、その渇きはどんどん強くなり、苦しみとなっていきました。

やっと飲めた一口の水

どれほどの時間が経ったのか。
ようやく看護師さんから、「少しずつ飲んでみましょう」と言われました。

慎重にコップを持ち、、ゆっくりと口に運ぶ。
冷たい水が喉を通った瞬間、全身に染みわたるような感覚を覚えました。

「生き返った......!」

たった一口の水が、これほどまでにありがたく、貴重なものだとは思いませんでした。

そして、このとき私は 「あること」に気づいた のです。

御言葉は「水」のようなもの

聖書では、神様の御言葉が「水」にたとえられることがあります。

「わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう。」
(ヨハネによる福音書 4:14)

水が体にとって不可欠な者であるように、神様の御言葉もまた 霊魂を潤すもの なのだと、この経験を通して実感しました。

手術の後、私は物理的に水を飲めず、喉の渇きに苦しみました。
しかし、これと同じように、私たちの霊魂もまた、御言葉なしでは渇いてしまう のではないでしょうか?

人生には、痛み苦しみ があります。
心が疲れ、希望を見失いそうになることもあります。

そんなとき、神様の御言葉が「生きた水」となり、私たちの心を潤してくれるでしょう。

まるで、手術後に飲んだあの一口の水のようにーー。

渇いた霊魂に必要なのは、御言葉

今回の手術を通して、私は 水のありがたさ を実感しました。
そして、それと同じくらい 神様の御言葉が私たちにとって必要なもの だと改めて悟りました。

私たちは、日々の忙しさの中で、心が渇いていることに気づかないこと があります。
しかし、御言葉から離れてしまうと、いつの間にか霊魂が渇き、疲れ果ててしまう。

だからこそ、日々御言葉に触れ、霊魂を潤すことが大切なのだ と思います。

「水なしでは生きていけないように、御言葉なしでは生きていけない。」

そんな当たり前のことを、私は 喉の渇きという経験を通して深く悟らされた のです。

あとがき

入院生活は苦しいものでしたが、その中で 神からの大切な教え を受け取ることができました。

「あなたの霊魂は渇いていませんか?」

もし心が渇いていると感じたなら、ぜひ聖書の言葉に耳を傾けてください。
その一口が、あなたの人生を潤す「生きた水」となるかもしれません。